9月1日を迎える子たちに伝えたい言葉〜曰く付きの誕生日のようなので語ってみました〜
生きるための逃げは「アリ」です
思えば、幸せな少年時代を過ごしていました
鎌倉市図書館のツイートが話題になってますね。 (引用元サイト:「学校が始まるのが死ぬほどつらい子は…」 鎌倉市図書館のメッセージに称賛の声) これを見るまで、9月1日に子供達が自殺する数が最も多いなんて知る由もなかったです。
ボクの誕生日が、まさかそんな曰く付きの日だとは…。
そういう意味では、ボクは非常に恵まれている少年時代を過ごしていた気がします。 小学生時代は夏休みに友達と遊ぶのが楽しくて、また休み明けに学校に行くのも楽しかった。 中1の頃は当時好きだった子に会えない夏休みが大嫌いだった。 (次年度に引っ越すことがわかっていたので、余計そうだったんでしょうね) 中2に東京に引っ越して以降、少し学校をつまらなく感じつつも、憂鬱にはならなかった。 高校3年間も、なんやかんやで楽しかったと今では思います。 (当時は遅く来た厨二病のせいか、本当に毎日がつまらなかった…) どの青春時代だって、何かの面白みがあった。休みが明けて学校に行く。
その事に絶望してしまう経験がないというのは、非常に幸福な生き方なのかもしれません。レールから外れてわかったこと
小中高と公立に通い、そのままストレートで国立大に入り、新卒で都内の企業に就職。 ここまで書くと、日本人にとって絵に描いたようなスムーズなレールを走っていました。 それが、その3年後に転職し、半年後に体調を崩し退職、そして派遣に籍を移して2年。 今年に入り、自分のやりたい事で仕事を見つけるためにブログを始めました。 ですが今でも、たまにあのままレールから外れることなく人生を歩んでいたらどうなっていただろうと思うことがあります。夢に見ることもあります。 恋人を作り家族となって、子供ができていたかもしれない。 両親には孫を見せ、おそらく今は亡き祖父母にひ孫を見せるという、温かな家庭。 そういうことを考え出すと、胸をかきむしりたくなるような思いに駆られます。 一体、今とその仮定の、どちらが幸せなのだろう。 意味はないとわかりつつも、それでもそんな淡い苦悩に時折頭をかかえる日々。 その思いを克服できてはいないけれど、今年に入って一つの解を導き出せました。
そんなの、生き抜いてみなきゃわからない。
この生き方を選択しなかったら、この3年間での素敵な出会いにはたどり着かなかった。 「好き」という自分の感情に向き合って人生を歩もうとは思わなかった。 田舎に帰るとついさっきボクが語っていたような素敵な生き方をしている人によく出会う。 その度に心は揺れる。 髪を掴まれ自分の轍を見せつけられ、 『ほら、お前はどうなんだよ?』 と自分自身に追及され、追い込まれるような気分になる。 人生は競い合いじゃない。そんなのはわかっている。 そんな曖昧模糊とした意識のせめぎ合いで、それでもこう答えるしかないんだろうな。そんなの、生き抜いてみなきゃわからない。
そしてあの時のボク、今のボクに言いたいこと
生きるための逃げは有りです。 有り有りです。ふと手に取った漫画で、学校の校長先生が主人公に言った言葉。 これを見た瞬間、ボクの胸にストンと落ちるものがありました。 ああそうか。 就職してからの転職・退職、そして今の職業の選択を、ボクはどこか「逃げ」として浅ましいものとして扱っていたんだと。 そうやって自分を貶めていたんだなあと。 レールから外れて初めて生き方なんていくらでもあるとわかりました。 いくらだって、生き方は見つけられる。 そしてそれは、今通っている教室にあるとは限らないんですよ。 死ななきゃならないと思ったら、ガツガツ逃げ出せばいい。 生きるための逃げは、逃げじゃなくて「生への行進」です。 どんな選択も、それが何をもたらすかわからない。 だからワクワクするし、楽しい。 答えなんか求める必要はない。ー「銀の匙」(講談社刊/荒川弘著)4巻より引用
そんなの、生き抜いてみなきゃわからないんだから。
ではでは、トモローでした。]]>
この記事へのコメントはありません。